少年時代。テレビを拾ったワケ
「人に優しく自分に厳しく」。
温かいが、しつけの厳しい家庭。
テレビはほとんど見せてもらえない。
弟や妹たちもテレビを見たがった。
仕方がないので、捨てられていたテレビを拾ってくると、
自分でなおして、弟たちに見せてやった。
ちょっと変わった、〝やさしいアニキ〟だった。
福田達夫とは
「人に優しく自分に厳しく」。
温かいが、しつけの厳しい家庭。
テレビはほとんど見せてもらえない。
弟や妹たちもテレビを見たがった。
仕方がないので、捨てられていたテレビを拾ってくると、
自分でなおして、弟たちに見せてやった。
ちょっと変わった、〝やさしいアニキ〟だった。
絵を描くことが大好き。
イラストはいまも得意だが、学校では授業中にいつも授業の中身や、授業とは関係のないものを絵にして描いていた。
もうひとつ。授業中、「この景色って、みんな同じ景色を眺めているのな?」とか、「僕が見ている赤と、ほかの人が見ている赤は違うんじゃないか?」と、よく言えば自分を客観視、ふつうに言えば〝夢想〟をする少年だった。
大学を出てワシントンにある大学院に。
世界から日本を見てみたい、客観的に日本を見たいという強い思いから留学。
学校ではアメリカ人の恩師から、「大学に残らないか?」と勧められるほど、学究生活は性に合ったが、日本への想い捨てがたく、帰国。
なぜ商社に入ったのか?
当時日本は世界経済を牽引していた。が、アメリカから見た日本には危うさも感じた。行政や政治ではなく「生の経済」を知ることで、きっと〝その先の日本〟が見えるのではないかと思った。
商社では「調査部」に所属し、日本と世界のミクロとマクロを、徹頭徹尾たたき込まれた。
人と話をするのは大好き。
地元の古老とは、陽の高いうちに伺って、気がつけば外が真っ暗になるまで話をお聴きする。
でも、おおぜいの前で話をするのが苦手。
自分自身のことを、格好つけてしゃべるといったことも全然できない。
「自己アピールが苦手な人間が政治家に向いているわけがない」、と、社会人になってからもずっと思っていた。
父は、決してあとを継げとは言わなかった。
「政治家は『継ぐもの』ではない。自分の道は自分で決めろ」、と言われた。
そんな頃、母は、国会で多忙な父に代わり地元に入った。
母は朝、子どもたちの面倒を見てから父を送り出し、地元に行く。夕方には東京に帰ってきて、また主婦にもどる。
達夫は社会人になってから、会社が休みの日には地元に入って挨拶回りをした。母の仕事が少しでも軽減できれば、という思いで。
地元の人たちと親しくなればなるほど、話の中身が濃くなる。抱いている夢だけでなく、日々の課題、不安や悲しみ。そして悩みや苦しみがあっても、すべてを包み込んでくれる地元の温かな包容力。
どんどん大きくなる地元の方たちへの想いに加え、商社で「地域にどんな事業があって、どんな人たちがいるのか」といった地域の特性を調べる仕事を通じ、群馬について経済面からも考えはじめていた。
さらに。縁あって群馬県立女子大学群馬学センターリサーチフェロー(第一期)として、社会的な側面や群馬県が持つ伝統・文化を研究する機会に恵まれた。もはや、群馬により深い愛着を抱かずにはいられなかった。
父・康夫が官房長官のとき。
秘書官が突然倒れ、臨時として父の手伝いをすることになった。
会社には、席を置いたまま。
そう、自分は政治家になるつもりはなかったから、官房長官の秘書官室では、秘書官の椅子には座らず、横に別の椅子を置いて仕事をした。当時の意識としては、「自分は父を支えるだけ」。
平成19年(2007)、父・康夫は内閣総理大臣に。達夫も政務秘書官として首相官邸に入る。もはや、あともどりはできなかった。
中途半端な状態で続けられる仕事ではなかった。仕方なく会社を辞めて、父をサポートする。それでも政治家になることは、やはり考えていなかった。
なぜ総理大臣政務秘書官になったのか?
父を助ける。それは大きい。しかし同時に、国の政治の中枢がどのように動いているのか。そのことへの探究心がまさったのである。
政務秘書官としての様々な役割の中で、心掛けたことの一つは、「総理秘書官室を明るい雰囲気にしよう」ということ。
寝る間もない激務とプレッシャーの中、首相を支える秘書官たちのチームプレーはなにより大切。そのために、どんな努力も惜しまなかった。達夫の持つ生来の明るい性格も幸いし、秘書官室には、つらい中でも笑顔があった。
そして予想どおり。
どうやって国が動いているのか。どんなところにこの国の問題があるのか。なにが国を動かすカギなのか。それをまざまざと見せつけられた。たくさんの課題が自分の中で積み上がっていった。
平成24年(2012)の総選挙で、衆議院議員に。
地元の人の声をきき、課題をみつけ、それを解決する。この繰り返しの中で自分では思ってもいなかった人間関係、深い友情や固い絆が生まれた。
もし自分がやれるなら、この人たちのために働きたい。その方法の一つが政治家という道だった。世襲批判は甘んじて受ける。だからこそ、普通の二倍も三倍も働こうと決心した。
なぜ福田達夫は中小企業政策、働き方、農政、安全保障に関わっているのか。
ひとことで言えば、「地域が輝かなければ、日本は輝かない」と考えているから。
初当選後、まず中小企業政策に打ち込んだのは、人の生活の場を作り地域の営みを支える柱の一つが、中小・小規模事業者だから。
そこで働く人たちの幸せを考えれば、働き方について考えるのも大切。
農政では、党の農林部会長代理として、小泉進次郎・部会長を支えた。やはり、地域を支える大きな柱が農業だからである。
じつは、本人は最初気がついていなかったのだが、祖父・福田赳夫も初当選のときから、中小企業と農業の振興を政策の柱にしていた。赳夫もまた、「地域が栄えなければ日本の繁栄はない」と確信を持っていたのである。
北朝鮮によるミサイル発射は、国民の命を危険にさらすもので、この危機から人々を守ることは、防衛大臣政務官となった福田達夫の大きな使命でもあった。
さらに、被災地を視察し厳しい現場で働く自衛官たちと交流する中で、彼らの姿、生き様に、幾度も魂を揺さぶられた。だからこそ、現場で働く自衛官の再就職など、一人ひとりの隊員を思い、政策を打ち出した。
結局、「史上最長の防衛政務官」として務めを果たすことになった。
令和2年(2020)。新型コロナによる突然の事態に、政府は小中学校の休校を決定。いくら緊急とはいえ、社会は受け入れる準備ができていない。
「働いている方たちは、子どもを預ける先を見つけることができるのであろうか」
「子どものために仕事を休んだら、収入はどうなるのか」
「急に会社を休まなければならなくなったら、企業やお店は仕事になるのだろうか」
達夫はただちに関係者に意見を聞き、10万円の生活給付金と、最大200万円の持続化給付金の支給を、先頭に立って実現させていく。
地域の経済を支える、地域の中小企業。
地域で働く、地域の方々。
福田達夫の政治の原点である人々の思いが原動力となって、達夫を突き動かした。
コロナ禍で移動を制限され、東京から地元に帰れないつらさ。
しかし、「いま自分にできることを全力でやるしかない」という信念を貫き通した
コロナ禍の中でも奮闘し大きく利益を上げている企業や商店もある。他方、どんなに頑張っても、仕事を継続できない事業者もいる。
国の政策は最初、スピードを優先した。誰にでも支援する。どんな企業も一定の基準を満たせばお金を出す。
国が国民にお金を配った。異常事態の中、国の姿勢を見せた。
しかし、たとえば複数店舗を持つ少し規模のある企業は、一律のお金では維持できない。経営が成り立たなければ、そこで働く人々も苦しむことになる。
本当に困っていることころに、適切なお金や施策を用意するのが政府の役割ではないのか。
きめ細やかな政策とは、きめ細やかなデータに基づかなければいけない。
ビッグデータ。
まだら模様の経済を一目で理解し、「どこに、なにを、どれくらい支援すればいいのか」がわかる。RESAS(リーサス)という仕組みを国政に反映させることで、日本復活の最短距離が走れる。
福田達夫の挑戦は、これからも続く。
弟妹思いの、授業中イラストばかり描いていたちょっと変わった少年は、愛する地域の方たちと共に、日本の未来を描こうとしている。
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