「栄光ある上野村」を
つくっていこうじゃないか
編集部上野村は人口1192(10月1日現在)人の村で、耕作地も決して多くない。普通なら存続がむずかしい集落と思われますが、バイオマスの有効利用や観光をはじめ、目を見張るような経済を展開していますね。
神田耕作地は少ないけれど、村の96%が森林。だから、これを利用しない手はない。
編集部村が発展したくわしい中身をお聞きする前に、少し歴史をひもときたいと思います。
いまの上野村の姿をつくられたのは、黒澤丈夫・元村長とうかがいました。
神田黒澤丈夫さんは、昭和40年(1965)から十期村長をされた方です。旧海軍のパイロット出身で、昔気質。だけど、ひじょうに物事を柔軟にとらえ、しかも先々のことをよく見通していて、いまの上野村の基礎をつくられました。
編集部神田さんは、部下としてつかえていらしたわけですが、具体的に黒澤丈夫さんはどんなことを考えていらっしゃったのでしょうか。
神田一期目に4つの柱をつくったんです。
第一が、健康。
何が一番大事かといえば、村民の健康です。だから、村民の健康をどうやって維持するか、っていうことを、重要課題にした。
そのつぎに道徳精神。
道徳ってものは、人間が生きる上で大切なことです。それをきちんと村民に理解をしてほしい。それがあってはじめて、第三の「物を知る」っていう、つまり知識を身に付けてほしい、ということにつながる。
最後は、「次の経済」。
この4つは、長期ビジョンとしてつながっているんですよ。
編集部いま、「次の経済」とおっしゃいました。単に「経済」ではなく、「次の経済」、というのは、どういう理由でしょうか。
神田いまの経済というのは、過去に、「これからこういう経済にしよう」と考え実行した結果です。
つまり、生き続けるためには、いまの経済をきちんと回すのは当たり前だけれども、「次の」経済、未来の経済を考えないと、長期的な維持発展は難しい。
編集部すると、黒澤丈夫さんが村長になられた昭和40年から、上野村は「次の経済」に向けて動き出した、ということですね。
当時の村の状況というのは、どういった感じだったのでしょうか。
神田黒澤丈夫さんが村長に就任した頃は、他の市町村もそうだったかもしれないけど、村の財政に対してみんな、そんなに関心がなかったんですよ。
予算があって、それに基づいて業務執行するわけですが、それがあんまりできてない。簡単に言えば、「どんぶり勘定」だったんです。で、黒澤丈夫さんは几帳面な人だから、「どんぶり勘定」を何とかしようとした。
そして、県に頼んで財政の専門家を呼んで、職員を教育することから、はじめたんです。
さらには職員だけでなく、村民の意識も改革していく。それがいま触れた「4つの柱」ですね。
編集部黒澤丈夫さんは、最終的にどんな理想を持っていらっしゃったのでしょうか。
神田最終的に、何十年後になるかわからないけれど、「栄光ある上野村」をつくっていこうじゃないかと。村民自身が自分たちで誇れる村をつくる。
編集部黒澤丈夫さんは、「上野村を遺す、と決めた」という言い方をされていたそうですが。
神田村を遺す。つまり村民が誇れる村を遺す。村民が誇れる村っていうのは、村民が生き生きと生活できる村っていうことですよ。
編集部いわゆる「町村合併」と「村を遺す」ということには関係がありますか?
神田村を遺すっていう話が出てきたのは、やっぱり「町村合併論」が始まってからですね。
合併していい町村もあれば、そうでない所もある。合併したことによって、本来あるべき集落地域の姿が無くなっていく可能性がある。それはやっちゃいかんよ、というのが、黒澤元村長の持論でした。
編集部神田さんは、黒澤元村長のこういった考え方について、どのようにお考えですか?
神田要するに「この村に住み続けることができる」、という理由を作る。言い換えれば、「経済を作ってそこで人を活かす」、ということだろう、と。
財政の問題でいえば、過疎債、地方債を上手く利用しつつ、無駄遣いしないで、毎年基金を積み立てた。やっぱり、活かすためには計画がなきゃだめだよね。
国からもらった金は無駄に使わない。ちゃんと増やして回すんだ、ということなんです。