【序】福田達夫

 衆議院議員。防衛大臣政務官。
   この肩書きを見たあと、福田達夫本人に会うと、誰もがその気さくさに驚く。「いつも、こんな感じですよ。たまたま政治家になったからそういうイメージで見られるけど、僕は、肩ひじ張るのはいやだから」
 自然体。それが、誰もがいだく意外な第一印象かもしれない。
 平成二十四年(二〇一二)に初当選してから五年。福田達夫は何を想い、何を実行してきたのであろう。
 まず、その人となりを探ってみた。
 

●高校時代に知った「裏と表」
 どんな子どもだったのか。
「授業中に、ぼーっと窓の外を眺めて、『この景色って、みんな同じ景色を眺めているのかな?』とか、『僕が見ている赤と、ほかの人が見ている赤は、違うんじゃないかな』とか、物事を相対化して見る癖がありました」
 家のしつけは厳しく、テレビを見ることが制限されていた。そこで、捨てられていたテレビを拾ってきて、自分で修理して、弟や妹たちと観ることも。
「なにか工夫したり、作ったりすることは大好きでしたね。いまも小学生の息子と二人で、新聞紙で大きな兜を作ったりしますよ」
 あまり勉強熱心ではなかったようだが、しかし、納得できることにはとことん興味を示した。
「高校の時に、現代社会の先生が『物事は一方向からだけ解釈してはいけない』ということを、曾野綾子さんの講演を元に教えてくれた。福沢諭吉も言っている『複眼主義』ですよね。
 物事には、表と裏、左と右もある。だから議論をしよう、議論していいところを組み合わせて、良い方向を見つけよう、ということ。とっても納得しました」

●自分の道は自分で決める
 政治家の家に生まれたことは、もちろん本人が希望したわけではない。
「僕は、自分自身で政治家には向いていない、と思っていました」
 人と話すのは大好き。地元に行くと時間が押していても、ついつい古老の話や経営の現場の話に引き込まれてしまう。
「いまでも少人数の対話は好きですが、大勢の方を前に演説をするのは得意な方ではないんです」
 その理由を、地元の人間はこう分析する。
「丁寧なんだよ。だから、あれも説明したい、これも話しておきたい、このことも加えなきゃいけない、となって。しかも早口だしね(笑)」
 祖父・赳夫が総理大臣に就任した時、福田達夫はまだ九歳。その中でどんな暮らしをしていたのか。
「父は、四十一歳まで会社員でしたし、政治とは距離を置いてくれたので、祖父が首相になるまでは、あまり『政治家の家』という実感はなかったですね」
 祖父・赳夫は周囲から「先生、先生」と呼ばれていたので、幼い頃の達夫は赳夫のことを「先生」と呼んでいた。
「幼稚園に行ったら、『先生』がいる。あれ?『うちの先生』以外に先生がいるんだ!、とびっくりしました(笑)」
 福田赳夫は、生卵をご飯にかけると、割った卵の殻の中にご飯を入れて残さず食べるような、質素で堅実な一面があった。父康夫もまた、厳しい人であった。
 しかし祖父も父も、達夫に一言も、「後を継げ」とは言わなかった。
「自分の道は自分で決めろ、ということでしょう。だから僕は、自分で『商社マンになろう』と決めたんです」
 

●地元の方の心のそばに近づく
 政治にはまったく関わらなかったが、やがて、その渦中に身を投じていく。
「母の姿を見て、これは手伝わなければ、と思ったんです。母は朝、子どもたちの面倒を見てから父を送り出し、自分は地元に行く。夕方には帰ってまた主婦にもどる。端から見ていても、大変な仕事だったと思います。僕も社会人になってからですが、休みの日に地元に行って、挨拶回りをしました。母の仕事が少しでも軽減できれば、と」
 地元の人たちと対話していく中で、意識も変わっていった。
「もともと群馬は大好きだったし、話を伺うのも大好き。でも、おつきあいが深くなればなるほど、お一人おひとりが持っている夢や悩み、課題なんかをじっくりお聴きする機会が増える。僕の気持ちがどんどんと、地元の人たちの心のそばに近づいていったんです」
 勤めていた商社での仕事も、達夫が地元のことを考える後押しになった。
「当時商社で、僕は『調査部』というところにいたんですが、ここで、国内の事業投資先を探すような仕事もしていた。つまり、どんな地域にどんな事業があって、どんな人たちがいるのか、どんな特性があるのか、ということを、調べる仕事です。それなら、ご縁のある群馬について、経済という面から考えてみようというきっかけになりました」

●「人」を守る
 やがて、官房長官になっていた父・康夫の仕事が激務になり、支えるスタッフが足りなくなったため、達夫は臨時の秘書として手伝うことに。しかしその時も、会社には席を置いたまま、一時的な手伝いという形をとった。
「急にいろいろなことがあって、どうしても父を手伝わなければならなくなりました。ただ、僕は政治家になるつもりはなかったので、官房長官の秘書官室では秘書官の椅子には座らず、横に別の椅子を置いて仕事をした。もちろん仕事自体は手を抜きませんでしたが、自分の意識として、『自分は父を支えるだけ』、と戒めていました」
 平成十九年(二〇〇七)。父・康夫が内閣総理大臣になった時、政務秘書官として官邸に入った。
「どうやって国が動いているのか。どんなところにこの国の問題があるのか。それをまざまざと見せつけられました。たくさんの課題が僕の中で積み上がっていったのはこの時期でしたね」
 その後、平成二十四年(二〇一二)の総選挙で初当選を果たした。
 衆議院議員になって、それまでと何がどう変わったのか。
「ひとことで表すのはむずかしいですが、たとえば、地元や他の地域でお話しを伺って、『あ、これが課題なんだ』と、自分の中で宿題にする。次にお会いする時までに答えを用意する。その課題をより現実的に見つけられるようになったし、実際に出来ることも増えている。政治家って、みなさんにとってもっと身近で、もっと良い意味で使える存在になるべきだと、最近は特に強く思うようになりました」
 いま、衆議院議員二期目を終えた。
 八月に就任した防衛大臣政務官という役職について、どう感じているのか。
「僕は、いつも『人』を基準に物事を考えています。そこに生きている、暮らしている、働いている個々の方々。そういう方の暮らしを守るのが政治じゃないですか。だから、大きな意味で、防衛の仕事は『人』を守ることに通じるし、国政でなければできない仕事なので、誇りと緊張感を持って務めています」
 いつ、なにが起きても対応できるよう、公務でかなりの日数、東京にいなければならない。だが、初めての防衛任務に、生来のきまじめさで取り組んでいる。唯一の不満は、「地元に戻る時間が減ったこと」だと言う。
 対話の中から政治を考える福田達夫。
 想いは常に、地元と共にある。

 衆議院議員。防衛大臣政務官。
   この肩書きを見たあと、福田達夫本人に会うと、誰もがその気さくさに驚く。「いつも、こんな感じですよ。たまたま政治家になったからそういうイメージで見られるけど、僕は、肩ひじ張るのはいやだから」
 自然体。それが、誰もがいだく意外な第一印象かもしれない。
 平成二十四年(二〇一二)に初当選してから五年。福田達夫は何を想い、何を実行してきたのであろう。
 まず、その人となりを探ってみた。
 

●高校時代に知った「裏と表」
 どんな子どもだったのか。
「授業中に、ぼーっと窓の外を眺めて、『この景色って、みんな同じ景色を眺めているのかな?』とか、『僕が見ている赤と、ほかの人が見ている赤は、違うんじゃないかな』とか、物事を相対化して見る癖がありました」
 家のしつけは厳しく、テレビを見ることが制限されていた。そこで、捨てられていたテレビを拾ってきて、自分で修理して、弟や妹たちと観ることも。
「なにか工夫したり、作ったりすることは大好きでしたね。いまも小学生の息子と二人で、新聞紙で大きな兜を作ったりしますよ」
 あまり勉強熱心ではなかったようだが、しかし、納得できることにはとことん興味を示した。
「高校の時に、現代社会の先生が『物事は一方向からだけ解釈してはいけない』ということを、曾野綾子さんの講演を元に教えてくれた。福沢諭吉も言っている『複眼主義』ですよね。
 物事には、表と裏、左と右もある。だから議論をしよう、議論していいところを組み合わせて、良い方向を見つけよう、ということ。とっても納得しました」
 

●自分の道は自分で決める
 政治家の家に生まれたことは、もちろん本人が希望したわけではない。
「僕は、自分自身で政治家には向いていない、と思っていました」
 人と話すのは大好き。地元に行くと時間が押していても、ついつい古老の話や経営の現場の話に引き込まれてしまう。
「いまでも少人数の対話は好きですが、大勢の方を前に演説をするのは得意な方ではないんです」
 その理由を、地元の人間はこう分析する。
「丁寧なんだよ。だから、あれも説明したい、これも話しておきたい、このことも加えなきゃいけない、となって。しかも早口だしね(笑)」
 祖父・赳夫が総理大臣に就任した時、福田達夫はまだ九歳。その中でどんな暮らしをしていたのか。
「父は、四十一歳まで会社員でしたし、政治とは距離を置いてくれたので、祖父が首相になるまでは、あまり『政治家の家』という実感はなかったですね」
 祖父・赳夫は周囲から「先生、先生」と呼ばれていたので、幼い頃の達夫は赳夫のことを「先生」と呼んでいた。
「幼稚園に行ったら、『先生』がいる。あれ?『うちの先生』以外に先生がいるんだ!、とびっくりしました(笑)」
 福田赳夫は、生卵をご飯にかけると、割った卵の殻の中にご飯を入れて残さず食べるような、質素で堅実な一面があった。父康夫もまた、厳しい人であった。
 しかし祖父も父も、達夫に一言も、「後を継げ」とは言わなかった。
「自分の道は自分で決めろ、ということでしょう。だから僕は、自分で『商社マンになろう』と決めたんです」
 

●地元の方の心のそばに近づく
 政治にはまったく関わらなかったが、やがて、その渦中に身を投じていく。
「母の姿を見て、これは手伝わなければ、と思ったんです。母は朝、子どもたちの面倒を見てから父を送り出し、自分は地元に行く。夕方には帰ってまた主婦にもどる。端から見ていても、大変な仕事だったと思います。僕も社会人になってからですが、休みの日に地元に行って、挨拶回りをしました。母の仕事が少しでも軽減できれば、と」
 地元の人たちと対話していく中で、意識も変わっていった。
「もともと群馬は大好きだったし、話を伺うのも大好き。でも、おつきあいが深くなればなるほど、お一人おひとりが持っている夢や悩み、課題なんかをじっくりお聴きする機会が増える。僕の気持ちがどんどんと、地元の人たちの心のそばに近づいていったんです」
 勤めていた商社での仕事も、達夫が地元のことを考える後押しになった。
「当時商社で、僕は『調査部』というところにいたんですが、ここで、国内の事業投資先を探すような仕事もしていた。つまり、どんな地域にどんな事業があって、どんな人たちがいるのか、どんな特性があるのか、ということを、調べる仕事です。それなら、ご縁のある群馬について、経済という面から考えてみようというきっかけになりました」
 

●「人」を守る
 やがて、官房長官になっていた父・康夫の仕事が激務になり、支えるスタッフが足りなくなったため、達夫は臨時の秘書として手伝うことに。しかしその時も、会社には席を置いたまま、一時的な手伝いという形をとった。
「急にいろいろなことがあって、どうしても父を手伝わなければならなくなりました。ただ、僕は政治家になるつもりはなかったので、官房長官の秘書官室では秘書官の椅子には座らず、横に別の椅子を置いて仕事をした。もちろん仕事自体は手を抜きませんでしたが、自分の意識として、『自分は父を支えるだけ』、と戒めていました」
 平成十九年(二〇〇七)。父・康夫が内閣総理大臣になった時、政務秘書官として官邸に入った。
「どうやって国が動いているのか。どんなところにこの国の問題があるのか。それをまざまざと見せつけられました。たくさんの課題が僕の中で積み上がっていったのはこの時期でしたね」
 その後、平成二十四年(二〇一二)の総選挙で初当選を果たした。
 衆議院議員になって、それまでと何がどう変わったのか。
「ひとことで表すのはむずかしいですが、たとえば、地元や他の地域でお話しを伺って、『あ、これが課題なんだ』と、自分の中で宿題にする。次にお会いする時までに答えを用意する。その課題をより現実的に見つけられるようになったし、実際に出来ることも増えている。政治家って、みなさんにとってもっと身近で、もっと良い意味で使える存在になるべきだと、最近は特に強く思うようになりました」
 いま、衆議院議員二期目を終えた。
 八月に就任した防衛大臣政務官という役職について、どう感じているのか。
「僕は、いつも『人』を基準に物事を考えています。そこに生きている、暮らしている、働いている個々の方々。そういう方の暮らしを守るのが政治じゃないですか。だから、大きな意味で、防衛の仕事は『人』を守ることに通じるし、国政でなければできない仕事なので、誇りと緊張感を持って務めています」
 いつ、なにが起きても対応できるよう、公務でかなりの日数、東京にいなければならない。だが、初めての防衛任務に、生来のきまじめさで取り組んでいる。唯一の不満は、「地元に戻る時間が減ったこと」だと言う。
 対話の中から政治を考える福田達夫。
 想いは常に、地元と共にある。