2026/11/02
去る10月22日、父 福田康夫は90年と3ヶ月を一期に、身罷りました。
先日、通夜、葬儀を滞りなく営むことができました。
お心を寄せてくださった皆さまに、心から御礼を申し上げます。

別れは、突然でした。
20日には、議員の皆さんと公文書館の件で打合せをしておりました。
21日の昼には、私も一緒に、インドネシアの方と打合せをしていました。
その場を「ちょっと体調が悪いから」と言って中座した翌日、旅立ちました。
最後の最後まで仕事をし、別れの言葉も遺さずに逝く。
残された私たちには戸惑いもありますが、最後まで「福田康夫らしかった」とも思います。
最後の最後まで取り組んでいた仕事が、公文書と外交。
政治家としての父を象徴しているかのようでした。
政治は、国民の信頼の上にしか成り立ちません。そしてその評価は、後世の判断に委ねられます。
何を決めたかだけでなく、どのような議論をし調整がされ、なぜそう決めたのか。
その過程を残し、次の時代の、より良い政治の材料にしてもらう。父が公文書管理に力を注いだのは、そういう思いからでした。
公文書を遺すのみならず、自らが官房長官、総理として関わった実務も、当時の日記をもとにまとめていました。
政策議論だけでは、政治は検証できない。それを担った人間が、どのような社会情勢の中で何を考え、どう人と向き合ったのか。
良かったことも、反省すべきことも、自分だからこそ遺せるものがある。そう考えていたのだと思います。
「まだまだやることがある」
「まだまだ仕事がある」
特に最近そう語っていた父こそが、この時に逝くことを、いちばん不本意に思っているのかもしれません。
父は、強い言辞を弄する人ではありませんでした。
しかし、ここは譲れないと決めた時には、決然としておりました。
総理として、C型肝炎訴訟の原告の方々を全員救済すると表明した後のことです。
会見から引き上げてきた総理室で、「いや、しかしですね」と異論を口にしたある官僚の方に、父が珍しく声を荒げた場面を、今でも忘れられません。
「君は、人の命をなんだと思っているんだ!」
制度にも、役所にも、それぞれの理屈がある。
しかし決して、「その先にいる人」を見失って良い理屈はない。
父には、そういう一線があったのだと思います。
消費者庁の創設を進めたのも、同じ思いからでした。
政府は、国家を運営する立場から物事を考えます。それが、国民の最大多数の最大幸福を創ると信じるからです。
しかしその立場に埋没すると、往々にして「その先にいる人」を忘れそうになります。
政府の中に、普通に暮らす「その先にいる人」の側から考える役所が必要ではないか。その問いを、制度の形にしようとしました。
公文書管理も、消費者行政も、華やかな仕事とは言えないかも知れません。
耳目を奪い、報道がもてはやすハデさがあるわけでもありません。
しかし、政治への信頼や、人々の暮らしを支える仕組みの根本に関わる仕事でありました。
政治には、感情に訴え、人々の熱狂を引き出すことも必要です。ただ、何を訴えたかと、何を実現したかは、別のことです。
人々の耳目を集め、賛同を得ても、それだけで暮らしが良くなるわけではありません。
父が大切にしていたのは、物事の本質を見定め、必要な調整を重ね、実際に動く仕組みにすることでした。
自分がその任を離れた後も、その仕組みが人々を支えていく。そこまでして、初めて政治の仕事になる。そう考えていたのだと思います。
「形式」を整えるだけでなく、「本質」において何を良くしたのか。
父の仕事を振り返ると、私自身も、その問いを向けられている気がいたします。
近年、とりわけ心配していたのが、世界情勢でした。
その言葉の端々には、戦争を経験した者としての実感がありました。
一度動き始めたら、容易には止められないものがある。
だからこそ、取り返しのつかないところまで行く前に、言葉を交わし、道を探し続けなければならない。
難しい状態であればあるほど、政治の知恵が試されている。
議員を引退してからも、表からは見えにくいところで、人と会い、話をし、知恵を出し合っておりました。
立場が違えば、それだけ話す必要がある。難しい時ほど、道を一つに狭めず、可能性を残しておく。
日本と世界の平和という目的のために、自分にできることを続ける。
その姿勢は、最後まで変わりませんでした。
家庭では、細かく説明をする父ではありませんでした。
自分が責任を負うから、ついてこい。そういう、古いタイプの父親でありました。
息子としては、もう少し説明してくれても、と思うこともありました。
それでも、折々の短い言葉は残っています。
人の道を外れるな。常識で考えろ。
筋を通せ。自分より先に、人のことを考えろ。
評論家になるな。気がついたらやれ。
背筋を伸ばせ。顎を引け。
人生のその時々に必要な、指針はくれていたものと思います。
多くを語るわけではない。しかし、言葉を交わした相手には、何かを遺す人でもありました。
御弔問くださった、ある引退された政治家が、こんな話をしてくださいました。
「福田さんは、実現が難しいことでもさらっと口にする。そして『こんなことができなければ、どうするんですか』と言う。言われているうちに、やるのが当たり前のことに思え、できなければいけない気になってくる…永田町でこういう真っ直ぐな言葉を持つ人は珍しい」
そういえば、19年前の洞爺湖サミットを終えた後、米国のブッシュ大統領から言われたことがあります。
「親父さんは、ソフトに見えるけれども、タフネゴシエイターだった。『環境問題で、我々先進国が範を示さずに、発展途上国にどう向き合うつもりなんだ』……親父さんだから言うこと聞いたんだ」
父を報道で知る方と、実際に会った方とで、印象が違うことがありました。
その違いの一端は、こういうところにあったのかもしれません。
先人が永年かけて培ってきたものは、「常識」として大切にする。その上で、将来のために必要であれば、断固として変える。
立場や意見の異なる相手とこそ、人としての筋は通しながら、粘り強く話をする関係を絶やさない。
まさにこの姿こそが、「荒ぶらない、保守政治家」の姿なのではないか
息子の目に映った父には、そういう、しなやかに剛い一本の筋がありました。

政治の仕事をともにした皆さま、仕事を離れてお付き合いくださった皆さま、そして、長年地元で支えてくださった皆さま。
皆さまが、父と過ごした一片一片の情景、父との間の空気感、そして交わされた何気ない言葉。それらをいつか、残された我々遺族に、教えて頂ければ幸いです。
そのたびに、私たち遺族は、私たちの知らない父に出逢える気がいたします。
皆様に囲まれ、父は果報者でありました。
父に代わり、心からの御礼を申し上げます。
ぜひご登録ください!